レイテ・サマールの慰霊 “雨の島で消えた命”を忘れないために

当社とゆかりのある、フィリピンで太平洋戦争(第二次世界大戦)が行われました。
この太平洋戦争で命を落とした日本兵・フィリピン民間人・米兵を悼む慰霊碑が点在しています。
その慰霊碑や、海上の沖合へ当社取締役 海老原広幸が参拝したことをご紹介させていただきます。

1.レイテ沖への慰霊

フィリピン式の船で10分程度沖まで出た際の慰霊(献酒を行った)

レイテ沖海戦として伝わっておりますが、実際にはサマール島沖の様です。
ここでは、大型戦艦(武蔵 等)がたくさん撃沈され実際の場所はサマール島先端のギワンです。
ギワンにはレイテ島中心部から車で片道3時間半かかります。
また、サマール島にはNPAというフィリピンのテロリストが存在しており大変危険な場所の様です。
特に日本人は誘拐される恐れがあるので訪問される際は注意が必要です。

2.レイテ島への慰霊

レイテ島には現地住民の手で慰霊碑が立てられた日本兵(山添勇夫大尉)の慰霊碑があります。
祀られているのは京都府出身の山添勇夫陸軍大尉。
1937年に召集後、フィリピンに派遣されドラグ市の守備隊長を務めたが、1943年に現地ゲリラとの戦闘で戦死した。32歳だった。

山添大尉は地元住民らと親睦を深めるためにスポーツや映画上映を行うほか、食糧不足を補うよう野菜作りを教えるなどしていた。彼らの信頼や尊敬の証しとして、慰霊碑が建てられたようです。

レイテ島戦没者慰霊碑

日本守備隊 第20連隊と上陸した米軍の戦闘地に秋田出身の2名により建立された慰霊碑碑文には「比島に眠る勇者たちに捧ぐ」と記されている。

ブラウエン慰霊碑

レイテ島に派遣された静岡出身部隊は第26師団独立歩兵第13連隊が挙げられる。
同連隊の第三大隊(重松大隊)が西海岸から脊梁山脈を越え、第16師団の残部や高千穂空挺隊、工兵の一部と共にブラウエン飛行場奪回作戦に参加。一時は飛行場を確保したものの米軍により再占領され、そして米軍のオルモック上陸により作戦自体が中止となった。その後西海岸へ転進時に第三大隊は殿を務め追撃する米部隊の進行を阻止。その後昭和20年2月頃に連隊はカンギポット山付近へ到着し、シラッドにて自活を開始する。このシラッドが連隊終焉の地とされる。

ブラウエン中心部の地蔵尊(ブラウエン警察署の敷地内に建立)

碑文には「歩兵第二〇連隊ナンバ会」と記されており、同連隊第2大隊(大隊長・難波喜次郎大尉)の生還者及びご遺族により建立されたものと思われます。

ブラウエン郊外のマグパス地区慰霊碑

碑文には「日比両国の永遠の平和と繁栄を祈念し建立」と記されている。

レイテ島役場内の展示品

かつての激戦の歴史を伝える野砲跡が保存・展示されています。

3.サマール島・ギワンへの慰霊

岸波乗組員であった大平洋金属の元社長が建立した慰霊碑です。
1944年11月、駆逐艦「岸波」は米潜水艦の雷撃によりパラワン島沖で沈没しました。
遺族や関係者によってサマール島周辺で亡くなられた方々の鎮魂と平和祈念のために碑が建立されました。

レイテ島、サマール島の慰霊碑等をご紹介させていただきました。これらの慰霊碑へ当社取締役 海老原広幸が訪れ、戦没者の御霊にご冥福をお祈り申し上げるとともに、現地にまだ残されている御霊を靖国神社にお連れするべく、現地にて慰霊して参りました。

また、慰霊碑の多くは「帰れなかった人たちの存在を、せめて名前だけでもこの地に残したい」という願いから建てられています。

最後に

先の大戦から年月が経過し、戦争の記憶が風化しつつある今、私たちは改めて過去の歴史と深く向き合わなければならないと考えます。多くの尊い命が失われ、筆舌に尽くしがたい苦難をもたらしたあの戦争の過ちを、私たちは決して風化させてはなりません。当時の教訓を深く胸に刻み、「戦争は最大の悲劇である」という反省を、未来の平和を守るための強固な土台として生かしていく責任があります。
当社としては、平和をただ享受するだけでなく、他者への寛容さと対話の精神を重んじ、多様性を認め合う社会を築いていき、いかなる対立や課題も、冷静な対話によって解決する道を模索し続けていくことをお約束いたします。

追伸

詳しく知りたい方は担当者へご連絡くださいませ。

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